ハイブランド買取物語9 10ctのサファイアリング 山根陽子の場合

高層マンションの一角、自身の部屋のドアを開け電気のスイッチを入れると、真っ暗だった空間が一気に形を帯びた。
山根陽子(50)はシルバーのパンプスを脱ぎ捨てると、奥のリビングに鎮座する大きな白いソファにどっと体を預けた。
寝そべったままごろんと仰向けになり、ローテーブルに転がっていたメイク落としに手を伸ばして顔に塗ったくる。
はあ〜疲れた。もっと仕事を部下に割り振れたらいいんだけど…
ホント、最近の若い子は使えないわね。
私が若い頃なんか職場に寝袋持参が当たり前だったのに、今はワークライフバランスがどうのと、すぐに退勤しちゃう。
あの女性総理を見習いなさいよ。
私も働いて働いて働いて……ええと、何回言ったっけ。とにかく身を粉にして働くわよ。
自分には必要のないジュエリーたち

中堅企業の社長である山根は忙しい。明日は政治家との会食予定が入っている。
山根はさっと風呂を済ませると、ジュエリーボックスを漁り始めた。
大粒のダイヤモンドブローチや鼈甲の髪飾り、象牙のピアスなど様々なアクセサリーがこぼれ落ちた。
山根はひとつひとつ手にとって確かめる。
これはデザインが古いわね。
こっちは私の年齢にはもう合わないわ。
仕方ない。小粒だけれどエメラルドのペンダントがあったはず。あれにしましょう。
鮮やかな緑色のペンダントを手に取り踵を返した。
ふと、振り返ってキラキラと光を撒き散らしているジュエリーボックスを眺める。
この子たちは、もう私には必要ない。
どうにか処分しないと。
捨てるにはもったいない。
でも売却する時間もない。
あげる相手もいない。
どうしようか……
出張買取で全部売却しよう!
「それなら買取専門店に連絡してみたらいかがですか?」
「買取専門店?」
会社の腹心の部下から思わぬ情報を得た。
ブランド品や高価なものを買い取ってくれる店があるのだという。
「僕も壊れたロレックスを買い取ってもらったことがあります。対応も良かったし、確かLINEで査定もできるはずですよ」
「その店教えてちょうだい」
教えてもらった店、Dan-Sha-Ri(ダンシャリ)は、確かにLINE査定をやっていた。
しかし山根はそれよりも出張買取に興味を引かれた。
山根は多数のハイジュエリーを持っていた。
バブル時代に自分で買い集めた、いわば山根のコレクションだ。
起業した自分へのご褒美とステータスにと求めたものだったが、どれももうデザインが古臭い。
身につけられないのでジュエリーボックスを圧迫する要因にしかならないのだ。
これ、全部売ろう。
全部売るならLINEでちまちまやりとりするよりも、出張してもらった方が早いわ。
山根はすぐに出張買取に依頼をした。
大きな決断とサファイアリング

やってきたのは若い店員だった。
玄関先でジュエリーボックスをひっくり返すと、ひとつずつ丁寧に、そして素早く査定を開始した。
山根ははじめ「若く見えるけど大丈夫かしら」と不安だったが、真剣に査定している姿を見て安心できた。
最後のジュエリーに手が伸びた。
それは10ctのサファイアリング。
山根はハッとした。
それは結婚まで考えていた男性から家庭に入ってほしいと言われ、仕事を捨てられずに男との別れを選択した時、自分を鼓舞するために買ったものだったから。
「そんなに仕事が好きなら、仕事と結婚すればいい」
「ごめんなさい。さようなら」
あの時の苦い思いが蘇ってきた。
やっぱり売れない…だってこれは私の大切な思い出

「査定が終わりました。これが査定額です」
相手の声で現実に引き戻された。
山根は査定額を見て、頷く。
だいたい予想どおり。
でも……
「あの、最後のサファイアだけ、やっぱり売りたくないのだけれど」
「かしこまりました。それではサファイアリングを除いた査定額を出し直しますね」
店員は顔を顰めることもなく査定額を書き直した。
ただ一言
「こちらのサファイアは素晴らしいお品物ですね。もしお気持ちが変わりましたらいつでもご連絡ください」と付け加えた。
サファイアの査定額だった400万円分だけ、査定額から差し引かれていた。
明日も自分らしく生きるために

「はあ〜疲れた」
玄関先で真っ赤なヒールを脱ぎ捨て、リビングのソファにダイブする。
今日は若手社員が退社してからトラブルが発生し、山根は社長ながらに現場を駆けずり回った。
さらにトラブルを収束させて帰社する矢先、先ほど退社した若手社員が家族3人で手を繋いで仲良く出かけている姿を目撃してしまった。
それもあって、山根は心身ともに疲労を感じていたのだ。
会社より家族優先!?
それはそうだけど、もうちょっと配慮というかなんというか。
まだ仕事してる人間だっているのよ!?
山根は誰にも漏らすことのない愚痴を頭の中で繰り返す。
でも、頭の片隅で理解しているのだ。家庭を優先する時流だということくらい。
そして分かっている。自分の考えが理不尽だということくらい。
思い出すのは家族と手を繋いでいた若手社員のにこやかな顔。
彼は、ああいう時間を過ごすために会社に来て仕事をしているのだ。
私にも家庭を持つ生き方があったのかしら。ちょっと羨ましくも感じる。
……それでも、私なら家庭を持って子育てしながら会社を維持できたわ。
やっぱり最近の若い子はだらしないわね。
山根は気づいていない。帰宅してすぐにソファにダイブするようでは、仕事と子育ての両立など不可能だということに。
さあ、明日も働いて働いて働いて……ええと、何回言ったっけ。とにかく働くわよ!
山根の目線の先には、サファイアリングが美しく輝いていた。
